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代表あいさつ

継承 継承

戦後、沖縄の黒麹菌
のほとんどが
なくなってしまった!

何百年も前から黒麹菌造り続けていた沖繩ですが、戦争と共に、酒造所が集中していた首里が戦火で焼け野原になり、麹菌がほとんどなくなってしまいました。

しかし、泡盛の原料である麹菌を復活させる為、父が与那国島に行って、そこの蔵元の土壌を持ち帰り、それを培養し、沖縄の黒麹菌が再び再生されました。

父の思いを絶やしたくなかった

戦火で黒麹菌がほとんどなくなった後、
父が沖縄の黒麹菌を再び再生されました。

  • 父と母の二人三脚で黒麹がはじまる!

    平成二年に社長に就任し、今年で二六年目を迎えました。父が昭和三十一年に泡盛の原料となる「麹菌」製造所としてスタートしました。当時は、個人事業で運営していましたので、自宅の半分を工場にして父と母の二人できりもりしていました。小さい頃は、両親の仕事などほとんど関心がなかったのですが、学校から帰ってくると、父と母が麹菌をつくる姿をよく覚えています。当時の私には、父と母が仕事で苦労していた事はわかりませんでしたが、今はその両親の大変さがよくわかります。

  • 忙しい時でも、納期は守るように教えらた。

    父が病気で倒れて、しばらく仕事ができない時期があって、人手の少ない中、温度調整など手間のかかる作業が続き、朝から夜中まで仕事をする事も多かったです。特に受注が増える時期はすごく大変でした。でも、どんなに忙しくても、いただいた期日に間に合うよう商品を用意しなさいと父から教えられていましたので、商品は責任をもってお届けしていました。辛かったですが、そうした父の教えが今のお仕事にも繋がっているので、父に感謝しています。

決断! 沖縄で唯一の黒麹菌をつくる会社を絶やすわけにはいかない!

その後、父も高齢になっていたので、次の後継を考えていました。
息子は本土で働き、家族もいたので、父の仕事を継ぐのは難しかったので、会社を閉じる話もでて、このままだと沖縄の黒麹造りも途絶えてしまう、「これまでやってきた父の思いを絶やすのは良くない」と直感的に感じました。黒麹づくりをやめてしまえば、県内の泡盛メーカー様にもご迷惑をかけてしまうといったこともあり、私の方から父にお願いして、会社を引き継ぐことに決めました。

少しの不安はありましたが、ずっと小さいころから、父と母の手伝いをしてきたので、作業の工程はだいたいは理解していたので、技術的な面はあまり心配なかったのですが、実際やってみると大変でした。
それより沖縄の酒造所に原料となる麹菌が供給できなくなることへの責任みたいなものが強くありました。

でも、実際にはじめてみて、黒麹づくりはやはり大変でしたね。今は玄米を蒸すのに1 週間に1 回~ 2 回くらいなんですが、その当時は機械もよくなかったんで、1 週間に4 回ほど蒸す作業を一人でやっていたんで、大変でしたね。
当時は小分けして作ってました。今の機械は1 回で100kg 作れます。今は週に60kg から100kg くらい生産しています。
なかなかスタッフを雇えるほどの売上はないので、2 人でやっていかないといけないのは大変でした。
自宅でやっていた時は、麹菌の仕上がりにもムラがあったりしたので、たまにお客様から指摘されたりしたこともありました。
でも、そうした経験も今に生かされているんだとすごく実感します。

設計事務所で働いていた主人も会社を辞め、夫婦で工場を運営

平成十七年には、県内で設計の仕事をしていた主人も黒麹づくりに加わり、昼は義兄が経営する設計事務所で働きながら、週に三日ほどは黒麹づくりを手伝うようになりました。
義兄の会社でもあったので、いろいろ融通がきいたので、設計事務所と麹菌と両立することができました。まだまだ人手の少ない状況でしたので、夫が加わるのはすごく助かりましたね。
夫は基本的には配達と営業を担当していましたが、口下手な私の苦手な仕事を補ってくれる頼もしい存在です。

黒麹菌の配合比にこだわる!

  • 戦後に一旦途絶えた黒麹菌を、もう一度復活出来たこともあり、県内の酒造所の方も父が造った麹菌を使い続けていました。
    しかし黒麹の需要が増えていく中で、本土からも黒麹菌が入るようになりました。
    本土の会社が研究機関もしっかりしていて、規模も大きく、何と言っても麹菌の発芽が早くいい菌を造ってましたので、県内の酒造所から本土の黒麹菌に移っていく会社も増えてきました。

麹菌が復活するまでの道のり

戦後、黒麹が壊滅状態となり、酒屋も菌を作ろうと試みてました。しかしなかなか量が少なくうまくいきませんでした。そこで与那国の蔵にある土壌を持ち帰り、培養して、沖縄に黒麹菌が復活しました。

経緯については、石川酒造場の先代の社長が沖縄で黒麹菌をもう一度造れないかといろいろ情報を集めていました。そこで祖父が父に「沖縄に帰って種麹を造ってみないか」とお願いしたそうです。当時、父は宮崎に疎開で行ってまして、そこでも焼酎造りの仕事をしていました。その後、祖父が宮崎にいる父を呼び戻し、話をして、父もその事に賛同し、与那国島から菌を採り、培養したと聞いています。

もともと、私の家計は、昔から石川酒屋という屋号で酒屋を営んでいたんですが、いとこも含めてお酒造りに関わる家計だったようです。でもそうした父の思いが今の沖縄の黒麹菌の継承に繋がっていったことはすごく感謝しています。

創業当時は、電話や今のような郵便もなかったので、離島からの注文は、電報で届いていた時期もありましたね。今は、インターネットも普及し、メールや、電話で注文がとれるようになり、当時に比べるとすごく便利な時代になりました。 これからも父やいろんな関係者の方が築いた黒麹を一人でも多くの方にご提供していきたいと思います。